碧宮レイラです。
占い等をきっかけに、
自分の思い込みや隠れた願いに気づき、
モヤモヤを晴らし、
イキイキとした人生に向かって自ら舵をとっていく。
そんな人が増えてほしいと思いながら、健全な占いをやっています。
以前、DV支援のシェルターを運営されている方から、
直接お話を伺う機会がありました。
特に、家に寄り付かず、
夜の街に居場所を求める少女たちの支援をなさっていました。
オーディエンスは、福祉関係者、公務員、弁護士など、
いわゆる専門家と呼ばれる方たちでした。
そのオーディエンスが一斉に息をのんだ、
驚きと共に胸が締め付けられたエピソードがあります。
「本当の思いやりとは」について、
しみじみと考えさせられるものでした。
かいつまんで説明します。
避難先では、色々な生活物資が必要になります。
その中でも、衣類というのは、非常に重要なアイテムだと。
直接、その身にまとうものです。
あるとき支援の品が届きました。
衣類と書いてあります。
少女たちは、胸を躍らせて開封します。
彼女たちの表情が曇りました。
なぜか。
使い古された衣類、使用済みの下着だったからです。
想像してみてください。
居場所がなく、愛に飢えている子どもです。
ほぼ全員、自己肯定感は著しく低い。
年頃の女性にとっての衣類というものは、
安全安心に、アイデンティティに直結するもの。
彼女らが受けたショックは想像するに余りある。
「あなたにはお古がお似合い」
「あなたには使い古しで十分」
そんなメッセージだと受け取ってしまっても、
彼女らを責めることはできません。
喜びの時間は、
悲しみの時間になってしまいました。
これを送った人は、
どんな気持ちでこれを送ったのでしょうか。
使用済みの下着って。。
わたしは、責めるというより、
どういう動機、どういう思考でそうなったのか、
純粋に知りたいとおもいました。
でも、直接送り主から話を聴いてはいません。
だから想像するしかありません。
当人同士が品物をみて納得した上で取引をする、
いわゆるメルカリ的な感覚を、
寄付や支援に持ち込んでいるのでしょうか。
「無知」がもたらす悲劇だったのでしょうか。
それだけではないような気がしています。
人を助ける。
人を思いやる。
言葉にすることはとても簡単です。
そして、映えます。
「わたしは人を助けている」
「わたしは人を思いやっている」
まるで勲章でも得たかのように、
みずからの自己イメージを高めていく。
もちろん、
心から誰かの役に立ちたいと願い、
深い愛情をもって行動されている方がほとんど。
そう信じています。信じたいです。
でも中には、
「助ける」「思いやる」という言葉とはかけ離れた、
大きな大きな勘違いに基づく行動に及ぶ人がいる。
他人を助けている自分という虚像に満足している。
究極の自己満足に人助けという言葉を使っている。
そんな人たちもいるのだろうとおもいました。
助けるということも、思いやるということも、
相手があることです。
生身の人間が相手なのです。
その相手はどんな人なのか。
どんな気持ちでいるのか。
わからないなら、
直接聞けないなら、
必死で想像することです。
本当の思いやりとは、
勲章狙いの自己満足から生まれるものではありません。
ハートから湧き上がるのはもちろんのこと、
想像するという思考、
聞いてみるというコミュニケーションのプロセスからも、
生まれてくるものではないでしょうか。
このエピソードは、
ずっとわたしの中に鮮明に生き続けています。
相手が何を望んでいるのか。
本当に助けになるのか。思いやれているのか。
立ち止まって考えてみる、きいてみる。
自分のためだけになっていないか、問うてみる。
占いというサービスを通して向き合うお客様に対しても、
絶対に自己満足にならない。
そう心に決めてサービスを提供していきます。