現在のわたしは、偶然という必然の力を借りながら、自分の力で現実世界をイキイキと生き抜くヒントを得るためのカードリーディングをしている。
思うところがあって、特に、いわゆるニューエイジ系のスピリチュアル世界観からは距離を置いている。
そのためか、タイムラインに上がってくるスピ独特の言い回しへの違和感が、何やらずいぶんと増してしまっている。言葉の伝染力はとても強いなあとも思っている。
今日は、レベル(ステージ)が「上がった」から縁が切れる説について、危惧していることがあるので思い切って書いてみる。個人を批判したいのではなく、疑問点を書きおきたいという趣旨だが、スピが大好きで心の拠り所になさっているのであれば、あえて読まなくても良いかもしれないよ?とお伝えしておく。
「レベルが上がった」への違和感ポイント。
多種多様な経験値を積んだ結果、視座が上がり、物の見方が変わった。という、現実世界における自己成長という意味でのレベルアップを指すのであれば、特に違和感は持たない。価値観や話が合わなくなる現象があること、両者に距離感がありすぎると、コミュニケーションが難しいことにも同意する。
わたしが違和感を持つのは、「魂レベルが上がる」「周波数が上がる」という意味での「レベルが上がった」から他人との縁が切れるという納得の仕方である。
現実界での経験や努力によってレベルアップする話と、「魂レベルが上がる」という話は、似ているようで全然違うと思っている。
「魂レベルが上がる」って、なんかサラッと言っているけれど、おそらく輪廻転生説が前提にある。これは一定の宗教観に基づくものでしょう。
さらに、誰かが決めた(高次元から伝えられたというのかもしれない)、垂直方向の、ピラミッド階層的な魂のランク分けみたいなものが存在している。
そもそも一定の宗教観に基づくランク分けの香りが鼻についてしまう。
ランク分けとラベリングは、選民意識と分断を促進するものだと思うので、好ましくないと思うのだが、平和を好み差別を嫌う人たちも、意外と抵抗感なく使っているっぽいので、なかなか興味深いと思っている。(例えば偏差値の高低による評価はNGだけど、魂レベルによる優劣はOKなんですよね。)
差異ではなく「優劣」。
価値観や話が合わなくなるという現象の原因を、わざわざ「魂のレベルが上がった」ことに求めずとも、価値観の変化とか、目指す方向が離れたとか、スピらなくても、的確な表現はいくらでもできるはず。
でも、あえて、自分が上という以上は、相手が下という関係性を暗に含む表現をするのは、どうしてなのだろう?誰も自分が「下」とは言わないでしょう?上下という表現をナチュラルにあえて使う以上、優劣はつけていると評価せざるを得ない。
周波数高い低い問題。
魂レベルが高い人は悟っている。救われる。
という世界観をひとたび与えられれば、
魂レベルが高い人でありたいと思うはず。
ここで周波数が出てくる。
魂レベルが高い=周波数が高い
という表現をする。
何ヘルツだかよくわからないけれど
とにかく魂レベルが高い人は周波数が高い
という理のようなものを置く。
周波数同士のギャップは埋まらない。
わたしは周波数が高い「優」。
だから周波数が低い「劣」の人とは住む世界が違う。
という納得の仕方をしょっちゅうするようになる。
対話は失われる。
何もかも周波数に還元する人が住む世界とは?
個人的な予想の一つを述べる。サラッと読んでほしい。
周波数が高い魂レベルが高い人しか行くことができない「ユートピア」が設定される。
周波数が印籠とか免罪符のようなものになる。
物や人の周波数を測定できるという機械が登場し、周波数の高低を「簡単に」測れるようになる。
米やら野菜やらお菓子や衣服などに、すべて周波数ラベルが貼られる。
周波数が低い人は、悟れずには救われない。
という世界観に身を繋いでいるので、
何とか「高い」周波数だと判定されるために、
周波数の高いものを身につけたり摂取しようとする。
「簡単に」周波数を高められる「△△△治療」や「△△△グッズ」が「流行」する。
市場原理で価格が決まらないので、言い値で取引される。
お金ではなく、何か別のものを提供することを要求されるかもしれない。
それは身体かもしれない。時間かもしれない。
「努力」が実り、周波数が高いことを「証明する」バッジがもらえる。
バッジ=その人の価値。
対話はいらない。議論もいらない。みんな同じように感じる。そういう世界。
魂レベルというより、周波数の高低に、囚われる世界。
ちなみに、バッジはただの比喩。実際に何が目印になるかはわからない。
とにかく、このような、何でもかんでも周波数という数字に還元する世界観がはびこることを、わたしは危惧している。だって、それは結局、偏差値や残高と同じで、本質的な仕組みは、何も変わらないように思えるから。
わたしはこのような世界にいたいと思わない。
一定の宗教観に基づくランク分けに左右されたくない。
周波数が高い人用のバッジもいらない。
シンプルさは好きだけれど、こういう方向性で意図的に単純化された世界は好みではない。
実体のない救いや幸福論に身を投じるのではなく、現実世界に地に足をつけて、肌触り感のある人生を過ごしていきたい。
時には軋轢があってもかまわない。
生きていてよかったと思える瞬間を量産していくために、視座高く、ハラに力を入れて、右脳も左脳も、理性も感性も、直感も、とにかく全身全霊を使って、生きていきたい。
いまわたしは、心からそう思っている。
100%と同じとはいかなくとも、自分と方向性が近しい人と、どんどん繋がっていこうと思っている。
以下は、参考までに。
色々な場面で、人格の良し悪しだけに引っ張られず、仕組みがどうなっているかという視点をもって、見ていく必要があるなと思います。放置していた違和感があるならこのタイミングで一旦向き合った方がいいですね。