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その記号は、わたしそのものではない。

心にうかんだこと

タイトルの「その記号」とは、◎◎座とか、△△星人とか、H◎◎とか、I△△△などの、外側から与えられるカテゴリーのことを指します。

今日は、自分のことがよくわからなくなったときに、占いや心理テストをしたり、視える系の人に会いに行くことは、自己理解の手段として、部分的にアリとは思うのですが、絶対視したり囚われすぎることから距離を置くことも大事だと思う。という話をします。

わたし自身の経験について触れながらいきます。偉い人の言葉とかは出てきません。

30代で一生安泰と思われた肩書きを手放した後のことです。

解放感と同時に、肩書きを持たない自分の輪郭が薄くなったと感じました。焦りのような、空っぽを埋めたくなるような、とにかく何かつかめるものを欲していましたね。

また、ちょっと疲れていたので、自分の中には、なんにもない、なにも残っていない、と思い込んで、とにかく、楽をしたかったのかもしれませんし、自分は間違えるから、間違えない唯一絶対の真理的なものから、完璧な答えを得たいと思ったのかもしれません。

とにかく、「省エネで、外側から与えられる、絶対的な何か」をアイデンティとして欲しがりました。

・スピリチュアルリーダー(を名乗る人)が語る、高次の存在(と名づけている何か)によると、これこれが使命だと言われた。
・同じく、これこれが前世だと言われた。
・なんとか占いによると、生年月日から、これこれというカテゴリーに属しており、これこれこういう性質があり、あれそれこういう仕事に向いている。

とにかく空っぽを埋めたいところに、答えらしきものをもらえる。
「わたしが欲しいものを与えてくれた!」と思うわけです。
目をキラキラさせながら、収集しはじめる。

(ついでに、その人たちが「良い」と紹介するものは、だいたい試すようになる。
たとえそれが、ちょっとアレなものであっても。これはまた、別の話だから、これ以上は突っ込まない。)

でもね。だんだんと気がついていくのですよ。「省エネで、外側から与えられる、絶対的な何か」は幻想であったと。

なんとか大学なんとか学部卒、どこそこ勤務にアイデンティティーを求めているときと、外側から付された記号によるカテゴリー分けに身を委ねているとき、本質的にはあまり変わらないと。

【きっかけ①占術によって、あるいは人によって、言うことが違う。】

いま思えば当たり前なんです。
唯一絶対の真理を直接認識することは人間にはできないのですから。

「省エネで、外側から与えられる、絶対的な何か」をアイデンティとして欲しがっている人に対して、わたしはそれを与えられる、わたしはわかっている、本物だ、と豪語する人がいて、見事に成り立っている。要するにビジネスの一つなのです。シンプルに。

ある意味、世間知らずのあまちゃんなところがあった30代のわたしは、知らず知らずのうちに、「唯一絶対の真理の中にいると思い込んでいる、トンネルの中にいる信者」に憧れていたわけです。

もちろん、「唯一絶対の真理の中にいると思い込んでいる、トンネルの中にいる信者」であることを、心から幸福だと感じる人もいると思いますが、わたしの幸福ポイントは、そこではなかった。むしろ逆。

これだけバラバラなのに、「唯一絶対の真理」に基づく完璧で絶対的な答えを、外側に求めようとしている動機自体が、ナンセンスだな、と我に返りました。

【きっかけ②知ったところで、言動に反映させられなければ、変化は起きない。】

これまた、いま思えば、当たり前なんです。

でも、「唯一絶対の真理」であると言う思い込みと、セット販売されている「何もしなくても」「考えなくても」「願ってさえいれば」「ありのままのそのままの自分で」いれば、なんでもうまくいくという触れ込みが、ドロドロの砂糖の塊のように内側になだれ込んでいて、活力を奪っていました。

自分にバツをつけている状態で、自分は間違えると思い込んでいる。間違えるのは嫌だ。傷つくのは嫌だ。そういう恐れの感情が強いと、「唯一絶対の真理」が「正しい」と思い込んで、同時に布教される「ありのまま何もしない教」とセットで、それに従った方が良さそうに思えてしまう。願いが叶うブレスレットとかめっちゃ買い出す。

でも、先のきっかけ①のトンネル構造を認識し出すと前後して、徐々に、「あれ、このままで良いの?わたし何も変わっていなくない?」という疑念が、湧水のように浮かんでくる。ひとときの安心感は得られたのかもしれないけれど、未来に向かって行動する活力はどこいった?わたし以前はできていたよね?

あのときの、違和感というか、モヤッとした感じ、今なら言語化できそう。

少なくとも、「何もしなくても」「考えなくても」「願ってさえいれば」「ありのままのそのままの自分で」は、わたしの活力が居場所を失ってしまう。それは、自分が試行錯誤して間違えることより、もっとずっと、恐ろしいことだ!だって、人生の舵を、いや、自分の器を、別の何かに完全に明け渡すということだもの!!

(わたしが疑り深く、理性的な働きを重視するタイプだから、「唯一絶対の真理」に基づく「ありのまま何もしない教」が作動しなかった、とお考えの人もいらっしゃるかもしれません。自分という境界をなくして別の何かに委ねたほうが悟りに近いというお考えの方もいるかもしれません。もちろん、そうお考えになるのは自由です。でも、わたしとはちょっとスタンスが異なるようですね。古今東西、おのれの全身で真理を探究してきた哲学者たちの存在が、わたしにはまぶしく見えます。)

とにかく「省エネで、外側から与えられる、絶対的な何か」は幻想。だとわたしは思っています。

◎◎座とか、△△星人とか、H◎◎とか、I△△△などの記号を、自己理解の一助として、自分の中の言葉にならない矛盾や、理想とのギャップを受け入れるために、埋もれていた希望を認知するために、知ること自体は、害ではないし、有用だろうとは思っています。

異なる手法によって語られる自分像に、最大公約数的な共通点を見出せれば、なんとなく説得的にも思えるし、実際、確信に近い心当たりがあったりするから、言葉で自分を伝えたいと思ったときには、うってつけの材料にはなります。

また、これらの記号を旗印にすることによって、近しい性質を持つ人とつながり、安心感の中で刺激を与えあうこともできるのでしょう。そういう意味では他者理解の一助にもなる。

ツールとして有用ではありますが、生年月日、高次の存在なるものとのコンタクト、あるいは、言動パターンを解析して、外側から与えられた枠、星占いとか、なんとか人の魂とか、数秘とか、MBTIとか、とにかく、わたしを指して、記号やカテゴリーとして示されるものは、わたしそのものではないです。

アイデンティティではなく、深遠で複雑なわたしという存在をあらわしている「かもしれない」一つの側面にすぎない
どれか一つだけが本物で残りが嘘、ということもない

ひとつぶの致死率100%の生命体として、いま、この世に肉体をもって存在していること、持って生まれた遺伝子はありつつも、生きる環境や付き合う人々を自ら選んで、おのれの全身を使って、喜びとともに生き抜いていくこと、それ以上の確からしさは、なかなかないと思います。

「かもしれない」一つの側面にすぎない記号やカテゴリーを言い訳に引きこもったり、やたらと人を決めつけたり、逆に、他者に一方的に配慮を求めようとしたりすることは、囚われであり、喜びにつながりにくいので、なるべく距離をとるべきだと思います。

実際に目と目を合わせて話をしたり、一緒にご飯を食べたり、共同でプロジェクトをやってみたりする中で、直接感じられる、その人となり、を大切にしながら現実を生きていくために、喜びを分かち合うために、絶対視することなく、うまく使っていけると、なんかいい感じだと思います。

◎◎座とか、△△星人とか、H◎◎とか、I△△△などの記号については、自己理解や他者理解の手段として、部分的にアリだけれど、絶対視したり囚われすぎることから、しっかり距離を置く。

どなたかのお役に立ちますように。

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