言語・概念を超越する領域との向き合い方

碧宮レイラです。

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ちょっぴり学びモード。
東洋哲学に興味があって本を読み始めています。

「形而上」という言葉がありますね。

形がなくて、感覚ではその存在を知ることのできないもの。
時間、空間を超越した、抽象的、観念的なもの。
(広辞苑)

この言葉、どんな使われ方をしているか。

東洋哲学・イスラム哲学の世界的権威かつ言語の天才である井筒俊彦氏の表現を借ります。
(「老荘思想における絶対的なものと完全な人間」より)

「道」という老荘思想における万物の根源的なものについての記述です。

「究極的で最も深遠な形而上学的リアリティ以外の何ものでもありません」
と表現します。

神秘中の神秘であり、
有と無でさえも相互に識別されていない。

「言語が役に立たない形而上学的領域について、言語を用いていることを想起しなければなりません」と説きます。

知的に日常生活レベルで意図的に理解・体験可能ではなく、
「エクスタシー的合一体験」「エクスタシー的直観」をもってのみ体験できるものと置きます。

なるほどと思ったものです。

スピ業界でも大いなる根源とか、ソースとか、宇宙とか、様々な名称で語られている領域のことですよね。

超越かつ内在するとはいえ、「形而上」の領域である。
そう易々と体験したり、
100%言葉にできるものではなさそうですね。

どのように向き合っていけばいいのでしょう。

以前、とある場で、こんなことがありました。

何の不足もない喜びに満ち溢れた大いなる根源、

という表現に対して、オーディエンスの方がこう疑問を呈したのです。

「本当にそれはあるのでしょうか。」

わたしはものすごくいい質問だなとおもいました。
どんな風に答えるのかな?と興味津々でした。

答えは
「それに疑問を持っているようでは話にならない」
というものでした。

どういう意図での発言かわかりません。

言語化が難しい領域なんだよ。
証拠はなくて体験するほかないんだよ。
そこは信じるほかないんだよ。
時間がないからここでは語らないよ。

いくつかの意図が推察されますがわかりません。

でもシャットアウト気味の空気感が出ていたので、
質問者は黙ってしまい議論は起こりませんでした。

「よろこび」っていうのは感情で、
「無」だとしたらなぜそこに情緒があるのか?
「無」ではない存在なのか?
とか結構おもしろい展開になりそうだったので残念におもいました。

「根源」については表現方法含めて絶対的な信仰心が必要
という場だったのかもしれません。

形而上学的領域だから難しい。
これは間違いありません。
でも。

こうかもしれない、あーかもしれない。
とお互いに意見を交わしあうことまでを否定するものなのかな?

人間同士で伝えあっていくために、
限界を知りつつ言語化していくことは無益ではない。

そう思いたいのがわたしです。

—————————-
・自分が語ろうとしている領域が形而上学的領域にあると知る
・限界があると承知の上で言語化してみる
・意図をもって体験する領域ではないと悟る
—————————–

わたしもまだまだ学びの途中ですが、
指針として持っておきたいですし、
この感覚を共有できる方から学びたいなあと思います。

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