こんにちは。
最近、ブログを書くのに少し時間がかかっています。
いま書いておくべきだと感じるテーマが、
言語化が難しい分野であることが増えてきたみたいです。
さてきょうは、人間らしく生きていくには、
見えない世界と見える世界のどちらも大切にすればいいよね。
とおもっていることについて。
人間らしく、というからには。
そもそも人間を人間たらしめている要素は何か。
この点に触れざるを得ません。
わたしのブログを読んでくださる方は、
人間=「肉体」だけ。
というお考えの方は少ないのだろうとおもいます。
「霊魂」的なものが肉体に宿り、
その人を生かし、
精神的な働きをつかさどっている。
例えば「気」のように、
生命を動かす原理として。
そして、いわゆる「魂」のように、
肉体を離れても消滅せず、
例えば輪廻するような何かとして。
このあたりの解釈は、
特定の宗教の影響も非常に大きいところだとおもいますので、
ここではざっくりと、この程度言及するにとどめます。
要は、人間は、
目に見える部分と、目に見えない部分で構成されている。
という前提に立つ。
つまり人間は、
目に見える世界と、
目に見えない世界をつなぐ存在なのだから、
シンプルにどちらも大切にしたらいいよね。
とおもうのです。
現実世界で、
例えば仕事をしたり、
家庭を守ったりする中で、
どちらも大切にしている人。
そのイメージを書いてみると。
「なんか嫌な感じがする」といった、
直感の類や虫のしらせも大切にしたり、
健康保持のために「気」を整えたりする。
現在の為替状況や物価などの数値、
簡単に入手出来ていた品物の欠品等、
見える化されている情報を無視しない。
たとえば生活必需品を見極めて備蓄する。
資産を分散させる。
先祖や自然への感謝を胸に、
いま周りにいる人々と協力する。
物質と非物質、
見える世界と見えない世界、
どちらの価値も認め、
どちらも大切にしている。
こんなイメージです(あくまで「例」ですよ)。
物質について少し捕捉。
行き過ぎた物質社会、大量消費社会、
一部の富裕層が形成する金もうけ主義は、
たしかに心が痛む結果をあちこちで引き起こしています。
でも、物質、特にお金(紙とか金属に価値をのせたもの)を、
その象徴として敵視する。
一部の富裕層に対する敵視をとりこんで、
お金そのものに対する嫌悪感を持つとか、
お金を稼ぐということ自体に強い抵抗を持つのは、
なんだか少し不自然だなあと感じます。
お金に「絶対悪」のラベルを自分で貼って、
自分で囚われている。
「稼ぐ」という字を見れば、実った稲穂と家でしょう?
一生懸命に育てた稲を刈り取って持ち帰るようなイメージ。
このイメージは果たして「悪」なのかしら?
むしろ、心満たされる気がするのはわたしだけでしょうか?
お金にだって、非物質的な側面があり、
しかも豊かな気持ちをもたらしうる、ということですね。
堂々と稼ぎ、堂々と使えばいい。
わたしはそうおもいます。
物質と非物質、見える世界見えない世界、
どちらか一方だけに「悪」「善」のラベルを貼るのではなく、
どちらも大切にする。
その上で、なるべくバイアスを取っ払って物事を観察していく。
そうすれば人間は、
人間らしく生きていけるのではないでしょうか。
ちょっと脱線したかな?
簡単にまとめますと。
人間は、目に見えている部分と、目に見えない部分で構成されている。
人間は、目に見える世界と、目に見えない世界をつなぐ存在なのだから、
シンプルにどちらも大切にしたらいい。
物質と非物質、
どちらも大切にしたらいい。
その上でバイアスを取っ払って物事を観察していく。
例えば物質主義がもたらす弊害は認識しつつも、
だからといって「絶対悪」のラベルを貼らない。
わたしはこうおもっています。
ちなみに。
バイアスを取っ払う、
については、たとえばこのような記事もありますよ。
ご参考まで。
https://lab.kutikomi.com/news/2020/12/11/ninchifukyowa/
最後まで読んでいただきありがとうございました。