一歩一歩でも遠くに行けるもんだよ。(1)

碧宮レイラです。メール鑑定メインのカードリーダーで、現実をモチベートする鑑定、使える鑑定、気づきを量産する鑑定を提供しています(通常鑑定は受付停止中)。

突然ですが、勇気が出ない、出せない自分に嫌気がさしたこと、責めてしまったこと、モヤモヤしたこと。そんな経験ありますか?

わたしはあります。

 

勇気を出すことは、時に安全安心な穏やかな環境から外に飛び出ることを意味しますよね。

 

「安全安心」がゆるぎなく満たされていることは、かの有名なマズローの欲求5段階説によれば、あらゆるモチベーションを支える基礎となります。

一方で、自己成長のためには、いわゆる「コンフォートゾーン」を抜けてラーニングゾーンに踏み出すある種の冒険が推奨されてもいます。

たしかにどちらも一理ある。そのとおりだよね。と個人的には感じています。

ただ。

「安全安心」も「コンフォートゾーン」も、各々この世に生まれてからの経験値には絶対に差があるので、みな同質とはなっていない。

ゆえに、勇気を出すということにも、それぞれにふさわしい一歩がある。

 

生きていくモチベーションを保てるだけの安全安心と、自己成長するための冒険を両立させる塩梅は、自分にしかわからない。

それどころか、他人との機械的な比較や一律的な同調によって、大きな負荷がかかりすぎると有害となり得る。

自分自身で決めたその一歩が、傍からみれば小さく、何の意味もないように感じられたとしても、進み続ければ思った以上に遠くまで自分を運んでくれる。

 

そんなに目新しいことではないとは思います。

でも、いまのわたしは言い切れる。言い切れるだけの経験をしてきたのだとおもうのです。

 

だからあらためて書いてみようとおもいます。

 

いま特に、自己啓発ブーム、起業推進ブームのうねりの中にいる方が多いのではないでしょうか。

・おびえながら自己開示に取り組んでいらっしゃる方

・自己開示ができない自分に無力感を覚えていらっしゃる方

・そういった方に対する接し方を知りたい方

などにとっては、この記事はかなり参考になるのかもしれません。

 

占い師やスピ系の人の文章には、こういった仄暗さや理屈っぽいお題は敬遠されがちです。

「みんなハッピー、悩みゼロ、誰もがラクにしあわせに引き寄せ開運できる」と唱えている人は、たとえそういった仄暗い側面があっても書けないのでしょう。ビジネス的に。

でも、わたしは堂々と書いていきますよ。堂々と。

書き終わるのにめずらしく数日を要した記事。よかったら読んでみてください。

 

さて。早速結論から申し上げます。

・「トラウマ的な怖い経験をした人に対して、そんなの気にしなくていいと言っていいのは、本人だけ。」

・自分の経験を他人が100%理解することは難しい。

・リスクがあると感じた選択の結果に対して100%の責任を負うのは自分自身。

・他人の物差しに身を委ねるのか、委ねないのか、決めるのは自分自身。

・他人ではなく自分の物差しで進めたならば、たとえ一歩ずつでも前に進めるし遠くにも行ける。

 

ここ2年ほどのわたし自身のプロフィール写真の変化から、この結論に至った経緯を具体的にお伝えできればと思います。

 

ここにプロフィール公開に悩み続けてきたわたしがいます。

身バレしたくない。VS人間性を知った上で選んでもらいたい。このせめぎあいです。

 

 

身バレしたくないという強固な意志を抱いた理由があります。

だいぶ昔のことではありますが、ストーカー被害にあったことがあり、加害者がわたしに関する情報を得たのは、紙媒体・インターネット媒体の情報だったからです。

そして二度とその加害者に、わたしに関する情報を一ミリたりとも得させたくないからです。

 

もうおばさんだし、新たな被害に遭うはずもなかろう、と思いつつも、この世に生きているその加害者の存在は、完全に記憶から消し去ることが難しい。

大変理不尽な悔しいことですが。

一言でいえば、おそれ、なのですが、未知へのおそれ、というより、再被害へのおそれ、トラウマ経験をともなうもの。

このあたりの話は語り始めると長く暗くなるのでここら辺にしておきます。

ただ、情報は自分側でコントロール仕切れない=情報は極力出さないが正解、というスタンスをとり続けてきた背景が伝わったかと思います。

 

一方、カードリーディングをお客さまに対して提供することをしてみたい自分もいました。

そして、自分と言う存在を知っていただく必要性を理解していました。

いつまでも理不尽の陰に隠れていたくないという想いもありました。

まず、はてなブログを書き始めました。碧宮レイラとして初めてインターネット空間に認識していただいたはじめの一歩です。

そのとき使った写真はこれです。

後ろ姿のみ。

本当に怖かった。これでも。

当時お世話になっていた占いの先生には、どんな人か雰囲気がわかる写真じゃないと意味がない、とご指導いただいていました。

写真自体は正面からも沢山撮っていたので、これがいいんじゃないか、あれがいいんじゃないか、とアドバイスをくださいました。

でも怖くて怖くて。

 

実は正面でうつむき加減、セピア加工をしたものを、先生のブログ記事内に掲載させていただいていました。

事後に恐怖心がものすごく大きくなり、その画像を削除していただいた、ということがありました。

 

アドバイスの趣旨は頭では十分理解していたとおもいます。どんな人に自分の悩みを打ち明けたいか、その判断材料になるプロフィールと写真であるべきだと。

 

ただどこで誰がみているかわからない。ストーカー気質というものは甘くみたら大変なことになる。いまこの瞬間も手掛かりになる画像をあいつが探しているかもしれない。

情報をつかまれたらどうするの?誰がその責任をとるの?

わたしだよね。わたしだ。

 

スピ系の人はよくこう言うのです。

「おそれて、そちらに意識を傾けたら、その通りのことが起きるから、考えない方がいいよ。」

「大丈夫だと思えば大丈夫なんだよ。」

「起きてもいないことを恐れても意味ないよ。」

 

ごめんなさい。わたしには理解できなかったです。親切心からのアドバイスなのだろうとは思います。本気でそう思っているのだと思います。

でも全く理解できませんでした。

この世にはびこる犯罪・事故は、そのように望んだり、意識を向けたから起きたといえるでしょうか。

もう二度と同じ目に遭いたくないと思って防御することは、意味のない、自分の幸せを妨げている行為なのでしょうか。

 

こんな思いも、葛藤も、持たなくていいなら持ちたくなかった。なんて面倒なんだ。どうしてこんな思いをしなくてはならないのか。

「そうですね。あまり考えないようにしますね。」と作り笑いをしながら、実はそんな思いがどんどん心に溜まっていきました。

勇気を出した後の自分を想像してみても、全然ワクワクできませんでした。

いま振り返ると、侵襲気味なアドバイスを真に受けてしまったことで、安全安心のぐらつきを感じていたんですよね。

防衛本能が作動したのか、自己開示に対する苦手意識が強く残りました。

 

・「トラウマ的な怖い経験をした人に対して、そんなの気にしなくていいと言っていいのは、本人だけ。」

・自分の経験を他人が100%理解することは難しい。

・リスクがあると感じた選択の結果に対して100%の責任を負うのは自分自身。

・他人の物差しに身を委ねるのか、委ねないのか、決めるのは自分自身。

 

というわけで、一歩踏み出しながら半歩もどるような逡巡を経て、しばらくはこの、後ろ姿写真が主なプロフィールとして使われることになります。

さて次はホームページをリニューアルするタイミングでプロフィールページに使っていた写真。さあどんな変化があったでしょうか?

こちらにつづきます

 

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