きょうは、とある神社さまで出会ったひとつのエピソードに対して私が感じたことのシェアをします。パワスポ巡ってご利益云々のお話ではありませんよー ちょっとひねってます。
「縁結びの十一面観世音菩薩様で、良縁に恵まれなかった美しい姫君、赤松幸運が出家して現世の若い男女に良縁があるようにと祈願して彫ったと伝えられていています。」
お参りをした後、長い下り坂をおりきってふと目にした看板にこう書いてありました。お参りする前には目に留まりませんでした。境内には確かに縁結びの十一面観世音菩薩の安置されている小さなお堂があり(像は秘仏のようで拝見できませんでした)、手を合わせてこちらにお参りできたことに感謝を伝えていましたが、周辺に由緒などの看板は見当たらず、縁起等はわからないままの行動でした。
この一文を読んで、なんて崇高な想いなのかしら、、、と非常に感じ入ったのですけれど、同時に、「良縁」を願うなら、「良縁」に恵まれた人にあやかりたい、良縁に恵まれなかった人が掘ったなんて縁起が悪い、と思う人が多いのではないかしら。とも思ったんですね。平民から玉の輿に乗った○○の方をお祀りしたお社、とか、にぎわっていますものね。「ご利益」といったら、たいてい「何らかのわかりやすい結果」を残した存在と結びつくように思います。
「結果」がすべてで、答えは「外側」にある、という思考が染みついていれば(昔のわたし)、また、引き寄せの法則を狭く狭く解釈すれば、せっかくお参りするならば、強運に恵まれ欲しい結果を出した存在にあやかるのが近道、ということになるかもしません。それはそれで一つの考え方、なのかもしれません。
わたしは、エゴに支配されない透明感をこの赤松幸運というお方のエピソードから感じ取りました。彼女の想いが一つだったとは限らない。伝承にすぎない。忸怩たる思いがゼロだったとは思わない。
でも、いまここにいるわたしが、縁に恵まれなかった彼女が、誰かの縁を願って仏像を彫ったというエピソードに、「崇高な想い」と「自らのエゴを超越した深い愛情」を感じとったことは事実なのです。エゴを超越するということがどれほど難しいか。無条件の愛というものは、エゴを超えたところにあるもので、軽々しく口にするほど簡単に到達できる境地ではないですよね。彼女は、おそらく、自分で自分を癒すことができる人だったのだろうと思います。肉体をもってこの世に生を受けた、その生涯の中で、この境地に達することができた。まさに、その名の通り、「幸運」なことだったのではないでしょうか。エゴを超越し、無条件の愛を具現化してみせた。それすなわち、いわゆる大いなる存在、ソースエネルギー、絶対無限の存在そのものとして生きることができたのですから。
時空を超えて彼女のその想いを受け取ることができるなんて、その想いに触れることで、わたしも大いなる存在の一部であることを強く思い出すことができるなんて、いわゆる「ご利益」を超えた意味があったな、ああ、そうか、想いというご利益を受け取ったのだな、としみじみ思います。。
鎌倉にある佐助稲荷神社内にひっそりとあります。
佐助稲荷神社は閑静な住宅街の奥、銭洗弁天と鎌倉大仏の中間で鎌倉の隠れ里と言われる地にあり、朱の鳥居を抜ける参道から神狐、境内には所狭しと白狐が祀られています。永く鶴岡八幡宮の境外末社でしたが、明治42年(1909年)に独立した社となりました。
わたくし、ここでのお写真はあまり撮らなかったのでごめんなさいね。気になる方は調べてみてね。
まもなく締め切ります↓